2008年05月04日

Puttanesca



彼女は輪切りにされたブラックオリーブを選んで口に運ぶ。
伸びた髪を一緒に舐めてしまわないように、
片手で毛先をおさえて食べるしぐさが、
彼女が彼のものを吸い上げている時と同じで、
彼は一人でどきどきした。

細いグラスに注がれたビールを飲み干すと、
彼は思い出したように話し始める。
「昨日職場の飲み会の時に、違う部署の人にね、
この前、銀座で夜中にきれいな人と歩いてたでしょ〜!
って言われちゃってね。びっくりしました。」

「へぇ。やるじゃないですか。どなた?」

「あなたにきまってるでしょう。」

「あ。」
この前っていっても、銀座で会ったのは2ヶ月も前の話だ。

「私ですか。」

「そうですよ。」
彼は飲もうとしたビールを吹き出しそうになりながら笑った。

「目撃されてたってこと?」

彼女はやや眉間に皺を寄せ、首をかしげた。
お皿には、胸肉の娼婦風という、
よくわからない名前の料理が乗っている。

「そうみたいです。」

「で、なんて対応したんですか?」
彼女は相変わらず、肉は避けて、
オリーブばかりにフォークを刺し、口に運ぶ。
濃厚な塩気が口に広がる。

「しらをきりました。」

「ふふっ。おたくの会社がよく使う手じゃないですか。
身内に使っちゃ、絶対ばればれですよ。」
彼女はけらけらと笑って、ビールをぐっと飲んだ。

「そうかなぁ。うまくごまかせたとは思ったんだけど。」
彼は、うーんと腕を組んでしまった。

「ばれたら、やっぱりまずい?」
彼女は眼鏡の縁越しに彼を見た。今更そんなふうに聞くのは、
彼の正気を確かめたいからだ。

「そりゃあ、まずいでしょう。いいとはいえません。」
そういいながら、彼の表情は、さほど深刻じゃなかった。
彼女は、まずいのはそんな楽観的な彼の方だなと思った。

「奥さんってさ、ヤキモチやかないの?」

「あんまりかなぁ。妬いてるところってみたことないね。
むしろ、もう妬くような関係でもないし。」

「じゃあ、目撃されたと知ったとき、ちょっとは懲りた?」

「う〜ん。だったら今日もこんなところで
一緒にご飯なんてしてませんから。」
彼は、苦笑いというか、ぼやけた笑みを浮かべた。

「まったく暢気な人ですね。あなたって。」
彼女は彼女で、うふふふふふふと小さく長く笑った。

これは、まずい。

「今度からは、このあたりで会うのはよしましょうよ、せめて。
危ないわ。道端で手をつなぐのもこれからはなし。キスもなしよ。」

「そうですね。ごめんね。」

彼女は冷めた鶏肉をもぐもぐしながら、
にこりと微笑んでみせる。

話題を完全に切り替えて、
週末に買う車のことと、
先日あった息子の誕生日のことを
彼女はきいた。

この人は誰に対しても甘すぎると思いながら。



2008年01月10日

Chevreuil



まだ12月にもならないのに、街は5時にもなると暗く、
街路樹に巻きつけられたイルミネーションが
じゃらじゃらと賑やかに瞬く。

渋谷駅を降りると、TGIFめざして走る。
誕生日パーティをしている友人に
艶っぽい紫のブーケと美術館のペア招待券をプレゼント。
テキーラのショットを一杯祝いに空け、ハグとキスをし、
今夜一緒に祝えないことをたくさん詫びると、
自分のテキーラ代だけ置いて、すぐに店を飛び出し、
今度はタクシーを捕まえ、飛び乗る。

約束の時間は7時半頃。

「ミッドタウンの北西側まで。」
タクシーの運転手は一瞬間をおいてききかえす。
「北西側って、どこ?」
「乃木坂駅に近いほう。」

無愛想な運転手だったが、かなりとばしてくれたおかげで、
半ば諦めかかったが、7時半ちょっとすぎには着いた。
約束の場所は閉館で、受付の女の子に確認をとって、中に入る。

暑い。
彼女はコートを脱ぎ、近くのスタッフに彼がどこにいるかをきいた。
そうして、待っているうちに、
彼はお手洗いの方からすたすたとまっすぐ歩いてきた。

「あれ。今日聞いてたの?」
「いいえ。ちょっと間に合わなくて。
すみません、今ついたところです。」
「そう。残念だったね。じゃあ、30分くらい待っててくれる?
打ち合わせが終わったら、その辺で何か飲みましょう。
ビールは好きですか?」
「はい。大好きです。」

彼女は、顔がふわっと赤くなるのが自分でもわかった。
走ったせいだ、テキーラのせいだ、空調があつすぎるせいだ。
そう思ったけど、それだけじゃないのは一番わかっていた。
心臓がうるさい。

「じゃあ、終わったら携帯に電話するから。僕の番号は知ってる?」
「いいえ。」
彼はさらっと携帯の番号を彼女に教えて、
「Staff Only」のドアの向こうに消えた。

彼女は脱力したような足取りで、階段をあがり、表に出る。
冷たい夜風が頬に気持ちがいい。
青いじゅうたんのようなイルミネーションを左目の視界の端において、
近くのベンチに腰を下ろし、読みかけの民俗学の本を読む。
携帯は、かばんから取り出して、横に置いた。

結局携帯が鳴ったのは、40分以上過ぎた頃で、
彼女の頬はすっかりひえてしまったので、
屋内の犬用品店の前のベンチに場所を変えていた。

「遅くなってごめんなさい。今どこですか?」と彼はいい、
「いえ。えっと、これはどこといえばいいんだろう。
犬屋さんの前です。」と彼女は答えた。
「あぁ。入り口のところのだね。わかった。すぐいくよ。」
”犬屋さん”という表現に対して苦笑しているのが
電話越しに聞こえる。
彼女はしまったと思った。流れてしまいたくなった。

彼は間もなく現れて、二人はフロアを歩きだす。
木質のフロアは歩くとこつこつと硬い、いい音がする。
メインゲート側に出ると、
イルミネーションの大きなツリーがあった。
「わぁ。すごいね、これは。もうこんな季節なんだね。」
彼の率直な感嘆に、彼女もつられて「わぁ。」と呟いた。
あまりイルミネーションなどに心をひかれることはないのに。

すぐ近くのバーの2階にすたすたあがる。
スタッフたちが途端に慌て始める。
彼はオーナーの友人で、ここにはよく来るのだそうだ。

ペールエールを頼み、ざくっとグラスに注ぐ。
半分も入れないで、わしわしっとグラスを回す、
彼のそんなしぐさに目が釘付けになった。

品のいい形をした、大きな手。

他人行儀のままカンパイをして、他愛もない話をするうちに、
日本は牛肉とビールだけはイケてないという点で意見が一致した。
ビールはエビス以外認められない。
他のビールは米の味がする。べっとりと甘い。
テーブルを挟んでいても、ぐっと距離が縮まる感じがした。
食べ物の嗜好が似ている人とは気も合いそうな気がするものだ。

彼は彼女に「若いのに」とか「女性なのに」という言葉を使わない。
対等に、話をする。そういう姿勢が自然と表れている。

「私ね、はやく年をとりたいんです。」
組織の話をしているときに、彼女はぽつりとそういった。
「そしたら、もっといろいろやれるのにって思う。
若いのは枷が多すぎるっていうか。」
「そうだね。僕も若い頃よりも今の方が思うように、
ずっと自由にやれてると思う。周りの反応も変わってくるしね。
ちゃんと話をきいてくれるようになってきてる。」
「若さにこだわる方も大勢いらっしゃいますけどね。
私はそういう理由で老いた人がうらやましい。
って、あなたが老いてるっていってるんじゃないですよ。」
彼女は彼にならって、グラスにビールをざっと注ぎ、まわした。
彼は、はははと笑って「もうすぐ50ですから。」と言った。

「でもね、若い頃にそういう思いをするのは大事ですよ。
僕にもそういう焦りとか苛立ちとかがあったから、今がある。」
「本当?」
「そうですよ。そういうのを忘れないで、
時期が来るのを待っていればいいんです。
何にでも、適切な時期はめぐってくるものです。」


成果をすぐに出さなくてもいい。

そういわれた気がして、彼女の心はふっと軽くなった。


「これ、おいしかったね。おかわり頼んでもいい?」
空になったシェブルイユのタタキの皿をじっと見て、彼はいう。
彼女はその時、なんだか、かわいい人だなと思った。
少し、大学時代の担当教官に似ている。
「えぇ。私もこれ、もうちょっといただきたいです。」

「やっぱり、おいしいお酒とごはんを
ちゃんとおいしそうに食べる人と一緒だと、楽しいね。」
「その点では私、今のところ妥協してません。」
「はははっ。あなたは、正直そうだからね。
すぐつまらないと思っているのが顔に出るでしょう。」
「えぇ。だから、最初から断るんです。嫌な予感がするときは。」
「僕、若いときは我慢して出席してたけどなぁ。そういうのも。」
「実り、ありました?」
「結果的には・・・なかったね。ははは。
もう付き合いないね、そういう人たちとは。」

彼女はにこにことして、ビールをごくりと飲み干す。
オレンジのようなさわやかな香りが、すっと抜けていく。

「おいしいモノに申し訳ないことをしてきましたよ、僕は。
今は、もうそんなのは全部断っていますが。」

「正直なのはお互い様ですね。」

はやく彼に追いつきたい。
彼女はふとそう思って、そのハードルの高さを目前に実感しながら、
届かない気もしなかった。
それも若さが所以するものだと思ったのだけれど。

2006年12月07日

butter popcorn



すのこを浮かべたような小さな港から
まっすぐ一本だけ道が伸びている。

私と彼は
マッチ箱みたいにこじんまりしたフェリーからおりると
景色を眺め渡すわけでもなく、
なんでもないような具合に島の土を踏みしめた。

住民はキャディーカーに乗って
ゆるゆると、しかし、この島内では最速のスピードを
乗り回し、次々に奥へと消える。
観光客だけがいつまでもだらだらとそこに留まり、
私と彼はというと、すたすたと1本だけの道を歩いていた。

この街で最高級のレストランは
この街で最高級の島の入り口にある。

レストランの入り口付近では、給仕やバーテンが
思い思いの場所で午後の「準備中」時間を楽しんでいた。
「マシューはいるかい?」
彼は、目のやたらぱっちりした男に声をかける。
「あら、マシュー?キャンプ場の方で結婚式の準備してるわよ。」
男はくねくねと上ずったようなアクセントで答えた。

私と彼は、男に礼をいうとコトコトと足音を鳴らせながら
古い板張りのフロアを後にし、
再びぺたりと舗装されていない道に足をつけた。

さっきから気分がすぐれないのは、
さっき映画館で食べた
バターたっぷりのポップコーンのせいだろうと
小さなあくびを繰り返しながら歩いた。

森に囲まれて、さぁっと開けたスペースに
ドレスや背広姿の人々がもぞもぞと佇んでいるのが見えた。
走り回る子供達と犬。
談笑する中年達と、窮屈そうなブライド・メイドたち。
ファインダーにとびきりの笑顔を向ける新郎と新婦、その両親。

白いテントの下には、真っ白なクロスのかかったテーブルが
適度な間隔を保って配置されている。
鮮やかなブーケ。
ぴかぴかに磨かれたスプーンにフォーク、グラス。

なんとも形容しがたい、安っぽいカントリーソングは
ぶつぶつとノイズがまじりながら、
不快ではないヴォリュームで風景に溶け込んでいる。

私は「すてきね。」と言った。
彼も「すてきだね。」と言った。

隅でマシューがサラダを盛り付けているのが見えた。
私と彼は、マシューの傍まで歩いていった。

「やあ、兄弟。働いてるか。」
彼がそういうと、マシューはふわふわふわっと笑みを浮かべる。
「あぁ。来たんだ。ちょうどよかったな。今日はいい天気で。」

「えぇ。本当にいい天気ね。」
私の言葉にも、マシューはふわふわっと笑ってみせる。
そうすると、八重歯がぴょこっとでて、なんだかかわいいのだ。

「飯はくったの。」
「まだ。」
「ここで食ってくんだろ。あと1時間くらいで店開くから、
散歩でもしながら待ってろよ。ちょうど天気もいいしさ。」

よほど天気がいいのが嬉しいらしく、
マシューはその後も何度かいい天気というのを
理由にしたり、結論にしたりして彼と話をした。
マシューが同僚に呼ばれたのをきっかけに
手を振り、その場を去った。

新郎新婦は相変わらず、カメラに視線を投げかけていた。
カメラマンとその助手だけが現実的な格好をしていて、
後はさながら、映画を見ているような光景だった。

「私たちも近い将来こんなふうに結婚しちゃったりするのかしら。」
私がそういうと、彼は
「うん、いつかね。」と言った。

私は胃の中のポップコーンが膨潤するような錯覚を覚えた。
要するに、彼の答えが気に入らなかったのだ。

「いつか、いつかって、いつなのよ。
そんな事いってる間に、他の人に奪われちゃったらどうするの。」

カントリーがますます空虚に響いていた。
入り江にぽつんと咲いたひまわりは欠けていた。

「待てよ。その質問はおかしいよ。僕がどうするかじゃない。
君がどうするかだろ。もしかして、すでにそういう人がいるの?」

「そういうことじゃなくて、私は・・・」

そういうことじゃなくて、私は、
あんたの気持ちが知りたいだけなのに。

「ねぇ、僕の目を見て。ちゃんと話して。」

「いないわけじゃないわ。開店前のパチンコ屋みたいに、
自動ドアが開くのを待っているようなかんじじゃない。
私たちが別れるのを、列作って待ってるようなものよ。」

「つまり、僕と別れようっていいたいの。」

「違うわよ。それは違う。」

「じゃあなんなんだよ、その質問は。おかしいよ、明らかに。
もし、その男がプロポーズしたら、君はついていくの。」

「わかんない。もしかしたら、今の状態のままだったら、
あんたとは一緒にいられないと思うかもしれない。
自分の将来にすらちゃんと向き合えない人とはムリ。」
言いながら私はごおごお泣いていた。

彼は開きかけた口を、少し噤んで
大きくため息をつき、歩くのをやめた。
この会話の間、私と彼は歩き続けて、
1,2件の豪邸の前を通り過ぎていた。
私は彼が止まったのを気配で感じながらも、
足を止めることができなかった。
涙も止まらなかった。

「わかった。だから、止まれ。」
彼は私の側まで来て、肩をがしっと掴むと
「僕と結婚してくださいませんか。」
と言った。

今度は私の口が開きかけで止まった。
「何ですって?」
「僕と・・・結婚してください。いけませんか。」
この展開にすっかり動転しきっていた私は何も言えずに硬直した。
「僕の最愛の人、返事は?」
心配そうに覗き込む彼を前にしながら、
私は険しい顔のままうつむくことしかできず、
それから、道端によたよたと向かって、
白いバター風味の塊を吐いた。



2006年08月01日

carlsberg



本当は20分前にも一度、ここでドアをノックしたのだ。

下駄をカラカラ鳴らせながら、門をくぐって階段を降りると
「来ないのかなと思って心配してたよ。」と
暗がりの中に彼の微笑みが見えた。

「ごめんなさい。ワルネに寄ってて。
本当は、少し前にも来たんだけど、あなたいなかったから。」

8時に会う約束になっていたのに、
メールの返信をしていたり、
直前で友達と出くわしたりで、10分遅刻してしまった。

「そうだったの?ごめんね、CD屋に行ってたんだ。
今日は仕事休みで、ずっと部屋で絵描いてた。
君は?キノコはどうだった?」

彼は屈託なくのんびりと言葉を紡ぐ。
彼女はほっと安心して言葉を探した。

「キノコはね、私も嫌いだと思う。」
彼女がにこりと笑うと、彼もにこにこと笑った。
「それがいいと思うよ。」

「今日は雨がずっと降ってたから、部屋で報告書を読んだりしてたの。
あ、あと私のお手伝いさんがきたわ。すぐ帰ったけどね。
雨だから、どこにもいけやしないもの。」

「お手伝いさんって?」
「論文書くためのデータ収集のお手伝いさんよ。」
「それができないと卒業できないの?」
「えぇ。できないわ。」

彼は感嘆に鼻の奥をふぅんと鳴らした。

「ね、いつバーに行くの?」
「今からだよ。バイクを借りたんだ。行こう、行こう。」

この街の中ならヘルメットはいらない。
市場の前に交番はあるけど、
ノーヘルなんかじゃいちいち呼び止めないし、
夜には誰も駐在していない。

バイクの後ろに乗る。
彼女は片手だけ、彼のパーカをちょっとつまんだ。
腹部の温かさが伝わってくる。
伸びた髪の隙間から男モノのシャワーコロンの香りがした。

夜露に頬がしとしと冷える。
彼は途中のコンビニで煙草を買って
すぐそばのバーの奥にバイクを止めた。

そこはいかにも正統に、バーだった。
この島に来て半月経つが、
彼女は一度もこういった
インターナショナルな雰囲気の店に入ったことがなかった。

高いカウンターの椅子、様々な銘柄のビールサーバー
エスプレッソマシーンに、色とりどりのリキュール。
慣れているはずの雰囲気に彼女は息をするのも忘れた。
ぽかんと開いた口を漸く閉じて目を凝らす。
隅でアンプの調節をしている人たちが目に映った。
そうだ、こういうのが元々私の世界のものだったんだ。
彼女はやけにしげしげと店内を見渡した。

ロビと彼女は同じビールを頼んだ。
店員も客もみんなロビに挨拶をして
「ところで、彼女は誰なんだ?」ときいた。
そういう時、彼らは好意と好奇心と少し下世話な笑みを湛えて
彼女をじっと見つめるのだった。

彼女は少し遠慮がちな微笑みでもって返事をした。

この店に集うのは、多くは長期滞在の外国人だ。
世界中の芸術家が沢山集まるという街の
この小さなラウンジで毎週水曜日、世界中のミュージシャンが
それぞれ数曲プレイする。順番は決まっていなくて、
「次、俺!」と申告するか、
「エリック、頼むよ!」と推薦されるかでアクトが決まる。

「ロビ、今夜は弾かないの?」
彼女は唇についたビールの泡をぺろんと舐めると
ようやく気分が落ち着いて、口を開いた。

「わかんない。いつものボーカルの友達が
腹痛で来れないかもって言ってたから。」

「そう。大丈夫かしらね。」

彼女は心底、耳に慣れた音楽と雰囲気を楽しんだ。
楽しんだというよりも、徐々に郷愁に近いものに変わっていた。

ロビは隣で次々とやってくる客たちと談笑し、煙草をよく吸った。
それでも必ず、彼女が曲の終わりに拍手する時には、
同じように手を叩き、彼女の目を見て微笑むのだった。

客が多すぎて何人もが座れない状態になってきた頃、
「じゃ、次の人は誰かなぁ。」と
プロフェッサーと呼ばれているおじさんが
汗まみれでマイクを握った時、
「ロビ!ロビ、ロビ!!」
と、どこからともなく声があがった。
ロビは周りの人に押されるように前へ出て、
ジルバブをかぶったムスリムの女の子もその後に続いた。
ロビは彼女と目が会うと、少し困ったように笑った。

ロビと女の子は
イマジンとレット・イット・ビーを歌った。
女の子はうろ覚えなのかよく間違えた。
その間違えっぷりは
コントのようなタイミングで、店内は明るい笑いで賑わった。

ジルバブの子はアチェから家族で亡命してきた。
この国は一つだけど、バラバラだ。
一つになってまだ60年しかたっていないのだから。

最後にインドネシア語の昔の歌を、
とても4人の子持ちには見えないお兄さんと2人で歌って
ロビはギターを置いた。
まっすぐ彼女のもとへ来て、
「随分遅くなったね。帰る?」ときいた。
今までのショウが何でもなかったかのように。
「あなたが帰りたい時に、一緒に連れて帰ってください。」
彼女は周りの人と同様にまだ拍手をし続けながら言った。
彼は微笑んで軽く頷いた。

「あー、緊張した。人、多すぎ。」
ロビはふわっと笑って、息を大きく吐くと
歌う前に消した中途半端なしけもくに火をつけた。



carlsberg
たまにはビンタン以外がおいしぃのです。


2006年07月29日

indomie



観光客はほとんど通らないローカルの通りには、
ビリヤード小屋が最低1件はある。
そこには朝から晩まで若い男の子たちで賑わっていて
賭け事も酒も、音楽も揃っている。

夕飯を食べた後、宿に帰る途中で彼女は
ビリヤード小屋の前を通る。
そこでしょうもない冗談とアラックをひっかけるのが
毎晩の楽しみだった。
酒は買わなくても歩いていれば、振舞われる。

彼女はアラックを3ショットごちそうになって、
エカに待ち合わせ場所まで送ってもらった。
エカは彼女を妹のようにかわいがったが、
会えば必ず1度は「よければ、バリの恋人になるよ。」と言った。
彼女は聞こえないふりをするか、
「タン・ブリ」と柔らかく拒否をした。

待ち合わせ場所の薬局の前は暗く、
彼女は向かいのショーウィンドウの前で待った。
デワは数分で彼女の前に現れ、こっそりキノコを見せてくれた。
初めて見るキノコに彼女は幾らか期待をしたが
それは何の変哲もないただの茶色いキノコだった。

若者たちがたむろしているキオスで
インスタントラーメンを作ってもらった。
その中に刻んだキノコもいれてもらった。
アラックを一袋と、スプライトも袋に入れてもらった。
ピーナツをかりっと炒めたお菓子もつけてもらった。
お皿とスプーンもついでに借りた。

デワの実家の前には大きな豚がいた。
彼女は蚊に食われながら、豚をじっと観察した。
かわいくはないが、愛想はいい奴だった。

ワールドカップを見ながら、キノコ入りのインドミーを食べた。
デワは小口切りにした緑の小さな唐辛子を丁寧にはじいた。
麺は延びてしまって、ちっともおいしくなかったが、
熱いスープは夜気に冷えた体においしかった。
キノコ自体は歯ごたえもなく風味もよくはなかった。
彼女はアラックに酔った振りをして、途中で食べるのをやめた。

アラックを呷りながら、感覚が来るのを待った。
デワは何度も彼女に気分を尋ねた。
隣の部屋では集会から帰ってきた彼の弟が
仲間たちとPS2に興じている。

ラジオから流れてくる、アメリカのわがまま女の歌に
2人で笑いこけながら踊った。
「あなた英語わかるんでしょ。」
「わかるよ。商売だからね。」
「悪い人。私の下手なインドネシア語をおかしがってんでしょ。」
「いや、英語や日本語は必要ないくらい上手だからだよ。」
「うそばっかり。」

くるくる回るうちに
アラックが先に彼女の足元を絡ませた。
「キノコの前にアラックに酔ったわ。」
その場にへたりと座り込んで、彼女はスプライトだけを
袋に口をつけて飲んだ。
意識はハッキリしている。
この島に来て、沢山強いお酒を飲んだが、
一度も酔っ払ったことはない。
それだけ気が張り詰めているということなのだろう。

「あんた、ハッピーか?」
「なぜきくの?」
「キノコはどっちかだ。たまにすごく鬱になるときがある。
そうなるとちっともよくない。
あんたにはハッピーな気分でいてほしいんだ。」
「幸せよ。」
「そうか。なら、いいんだ。」

彼は彼女のうなじに吸い付いた。
「いや。」
彼女は彼の肌を押しやった。
「なんで?きもちいいよ。」
彼は彼女の体を優しく撫でた。
その手を彼女は受け付けなかった。

「いやなものはいや。
恋人以外の人としてもきもちよくない。」
「どうでもいいじゃん。ここはバリだよ。」

彼女はちっと舌打ちをした。
バリだろうがどこだろうが、
したい・したくないの分別がいちいち変わってたまるか。

「帰りたい。おなか痛い。生理なの、今。」
「帰りたいの?大丈夫?」
「ええ、帰りたい。」

彼はたばこに火をつけると一息ふーっと吐いて
「わかったよ。」と言った。

そしてまた「気分は?」ときいた。
彼女は「助平のせいで害したわ。」と笑って答えた。
「あなた、運転できるわよね?
できなきゃ、うちのワヤンを呼んでこさせるわ。」
「いや、できるよ。悪かった。
俺、半年くらいもう、やってなくてさ。」
「うそばっかり。」
「うそじゃないさ。」

「うそばっかりね。」
彼女はいたずらたっぷりに彼をじっとみた。
彼は彼女から視線をはずすと、
弱く笑いながら「違うよ。」と言った。


その夜彼女がベッドで見たのは、
カタカタと迫ったり引いたりする壁。
沢山の昆虫の列と鮮やかな色水がつるつる走るチューブ。
ぐにゃぐにゃと伸縮するミロの絵みたいな毛の生えた塊。
眠りに落ちる感覚は身体が落下する感覚。

眠れないまま、水溜りに転んだかのような寝汗をかいた頃に
最初の鶏が鳴いた。

世界が帰ってきた感覚にほっとして
熱い紅茶を淹れて飲んだ。


indomie
すごくおいしいわけではないが、庶民の味。


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