2008年02月11日

stay



家に帰ってきたのは、9時を少し回ったところで、
携帯には、彼から「おなかがすいた。もうすぐ帰る」と
メッセージが入っている。

なんだ、今夜はまだ食べてないんだ・・・。

毎週木曜日は目黒の方にある日本語学校に通っている彼は、
クラスの始まる前に夕食をどこぞで軽くとるから、
いつもなら作っておく必要はないのだけれど。

バッグを置き、コートをかたずけ、毛糸のソックスを履くと、
アラジンのストーブに火をつける。
ラベンダーのハンドソープで丁寧に手を洗い、
ヨード液で嗽をする。

湯をわかし、エリンギを割いていると、彼が帰ってくる。

「おかえり。」

「ただいま。」

一緒に暮らし始めた頃は、わざわざドアのところまで
迎えにいくこともあったが、今ではそういうこともたまにしかない。
というか、私の方が、だいたい帰りが遅いのだ。

彼は「ボクの猫ちゃんは元気かな?」ときく。
私は「まぁまぁね。」とだけ答える。

そして彼は、ろくに服も着替えないまま、パソコンを立ち上げる。
「手洗って、うがいして。ジャケットもちゃんとしまいなさい。」

彼は渋々私の言ったとおりにして、洗面所から出てくる。
「あのさ、洗濯物、たたんどいてくれる?」
私は手のひらの上でお味噌汁に入れる豆腐を切りながら言った。

「”please”は?」
彼はたたずんだまま、私の方をじっと見る。
こういう子供っぽい言動に心底イライラする。

「なんでそんなこといわなきゃいけないのよ。
私はあんたにpleaseなんていわれてなくっても
こうしてメシ作ってあげてるじゃない。
ちっせぇことこだわってないでちょっとは協力しろよ、チンポ野郎。」

彼は「ジーザス。。。」とぶつぶつ何かをいいながら、
バルコニーにでる。

イライラする。

昨日、あの人が酔っ払っていった言葉を思い出す。
彼はハーパーをロックで飲み、私は赤ポルトを飲んでいた。
「あなたのためなら、あなたが満足するなら、
僕は何だってするつもりでいるんですよ。」
具体的に何をしてくれるのかは知らないけれど、
そういうふうに口先だけでも言ってくれる男はかわいい。

彼の奥さんは、彼が夕食後の食器をおいておいただけで、
翌朝「私に洗っとけっていう意味?」と癇癪をおこして、
その皿を割ってしまったり、するそうだ。
それくらいのこと、私が専業主婦だったら黙ってしてあげるのにな。
そう言ったら、あの人はどんなふうに思っただろう。

陶器のお櫃にいれている白米を茶碗によせ、レンジで温める。

食卓にどんどん料理を並べる。
牛肉と長ネギ、エリンギの炒め物。
じゃがいものオリーブ炒め。
作り置きしてあったリーフサラダ。
近所の焼肉屋さんのセロリキムチ。
わかめとおあげとしめじのお味噌汁。

牛肉を食べるのは、何ヶ月ぶりだろう。
私は日本の牛肉があまり好きではない。
もっと草のにおいがする肉がいい。
彼も、日本では牛肉を好んで食べたいとは思わないらしい。

私たちは向かい合って、ごはんをたべる。
私はひどく腹が減っていたので、それこそ貪るようにして食べた。
一言も話さなかった。
こういうとき、彼は面倒くさい話題を吹っ掛けてくる。

「14日、どうする?」

「どうするって、何を。」

「バレンタインだよ。何かしたくないの?」

「別に。私その夜、ミーティングだから。」
というか、あの人が食事に誘ってくれているのだ。
ここのところ毎週、あの人は食事に連れて行ってくれる。

「じゃあ週末は?」
「別に、なんでもいいわ。」

「ちょっと、これじゃあルームメイトじゃないか。
僕たち、カップルらしいことしようよ。」

「カップルらしいことしてるじゃない。
毎日、一緒に寝て、ごはんたべて。何が不満なの。」

「バレンタインだよ?」

「だからなによ。私には正月ほどの大行事じゃないんだけど。」

「何でさ、そんなビッチなわけ?」

「疲れてる時にあなたがうるさいからよ。」

「僕のせいか。」

「機嫌が悪いのは私のせいよ。悪かったから少し落ち着いて頂戴。」

「なんで機嫌が悪いんだよ。」

「ストレスとかね。今忙しいから。」

「ストレスたまるような人生かよ。
君みたいにお気楽な暮らしをしてる人が?」

私は箸を止めた。
他の誰に、そんなふうに思われても構いはしないけれど、
彼だけは、理解してくれているものだと思っていた。
時々、プレッシャーに負けそうになって、泣きながら寝ていることも
彼だけは知っていると思っていたのに。

私は組織の代表であって、専門家だ。
同時にこの業界では珍しく若い、その上さらに珍しいことに女だ。
いろんな期待と好奇心と遠慮のない疑心と不信を
世間から向けられていることを彼は知っているはずだ。
それと同時に別の団体でアシスタントもしている。
そっちの方の仕事もアシスタントどころではないレベルの作業を
ずいぶんまわされてくるようになっている。
今抱えているプロジェクトは2つ。
先日それに1つ増えたところだった。
彼だけは、理解してくれているものだと思っていた。
どれほど自分を追い立てて、私がここにいるのかを。

私は、かなり傷ついた。
彼から言われた言葉の中で、一番傷ついた。
ごはんを咀嚼しながら、ぼろぼろ泣いた。
彼といる意味がない。そんな気分さえしてきた。

「あなたが、この業界で一生懸命働いてくれていると思うと、
僕も俄然、やる気がでてくるんですよ。あなたは本当に立派です。
だから、こうして一緒に過ごせる時間が僕には本当に嬉しいんです。」
あの人は昨日、そういってくれた。
それは同じ業界だから言えた事なのだ。
所詮特殊すぎる世界で、素人の彼にはわからないのかもしれない。
それが世間一般の反応だということ。
私は少し、自惚れがすぎたんだろう。

彼は私の何も評価してくれていなかった。
ただ、うちに帰れば、「おかえり」といって、
おいしい夕食を拵え、きちんと部屋を整えて待っていてくれる女を
評価するのだろう。そして、バレンタインなどにいちいち浮かれて、
あれやこれやと企画をする女を、彼は求めているのだ。
現実の私を、見てはいないのだ。

彼といる意味はもうない。私はここを出て行こうと思った。

「ごめん。嫉妬してたんだ。君は、自分の夢を実現して、
したい仕事をしていて。僕は、何だ、何にもならない仕事をしてさ。
ごめんよ。悪かった。
君はいつも、仕事のことはあまり話をしないから。
君がどれだけ大変なのか、わからなかったんだよ。僕が悪かった。」

私は彼が隣に跪いて、頬を撫でるのも無視した。

「お願いだから、出て行くなんていわないで。愛してるよ。」

「世話のやける男ね。傷つけておいて、
出て行くななんて、随分都合がいいじゃない。」

「僕を愛してる?」

「どうかしら。」

「そういわずに、ハグしてくれよ。キスしてくれ。」

「あなた、どうしてそう、要求ばかりしてくるの。
息が詰まりそうになるわ・・・」

小さい子供と同じだ。
でも男の人というのは概して多かれ少なかれそういうものだと思う。

私は、彼にハグとキスをくれてやる。
そうして食事に戻る。

彼がおいしいね。ありがとう。と言って、微笑む。
私にはそれだけで十分なのだ。
バレンタインなんていう装置は必要ない。

それを彼は判っていない。


Lisa Loeb
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